80年の歴史に幕?フォルクスワーゲンの歴史とは!傘下の企業は?

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子どもの頃、よく走っていたのを見ていた「ビートル」。

日本語の「カブトムシ」という愛称で呼ばれ有名になったのは、皆さんご存知ですか。

当時は、ビートル=お医者さんが乗っている車としてのイメージでした。

その「ビートル」「ゴルフ」などに代表されるのが、ドイツのフォルクスワーゲン社です。

なんと、その始まりは、ヒトラーの「国民車計画」に端を発するものだそうです。

親しみのある人気の丸みを帯びた愛嬌あふれるデザインの「ビートル」や「ヒトラー」「ナチス」という軍国主義のイメージはどうも結び付きません。

非対称とも言える両者の関係に、どのような変遷があったのでしょうか。

今回は、その謎を解くためにも、フォルクスワーゲンの歴史をご紹介します。

目次

フォルクスワーゲンの歴史とは?

では、ここから「フォルクスワーゲン」の歴史を紐解いていきます。

フォルクスワーゲンが出来るきっかけとなったのは、あのポルシェ博士ヒトラーが関係しているそうなのですが、ご存知でしょうか?

まずは、そのフォルクスワーゲンの市販車ができるまでの道程を見ていきましょう。

●フォルクスワーゲンの市販車ができるまでの秘話

◆ポルシェ博士とヒトラー

ポルシェ博士は、1875年オーストリア生まれ。
1898年からは自動車会社を転々としていましたが、組織の中では詩人が理想とするリアエンジンの小型大衆車の開発が出来ず、1931年に独立開業して自動車事務所を開いたばかりでした。

その会社というのが、名門スポーツカーメーカーのポルシェ社創立の母体となる設計事務所、その会社を設立したのがフォルディナンド・ポルシェ博士です。
Ferdinand Porsche

技術的問題を解決するためには、美的観点からも納得のいくものでなければならないが口癖だったのは有名ですね。

1933年にドイツのヒトラー試験が提唱した国民車構想。

ヒトラーは、かねてから自国のモーターリゼーションの遅れに危機感を抱いており、道路(アウトバーンなど)と車を作って、その挽回を図ろうとしました。

そこで、ヒトラーは、当時レーシングカーの開発者として既に名高かったポルシェ博士に、「国民車」の開発を依頼しました。

フォルクスワーゲンは、ドイツ語で「国民車」または、「(ドイツ)民族の愛用車」の意味があります。

 

この時、提示された「国民車」の条件は、基本性能、価格とも当時の小型車の常識から大きくかけ離れている物でした。

ヒトラーが思い描いた国民車とは、以下のとおりです。

・頑丈で維持費が安い
・大人2人と子供3人が乗れる
・時速100kmで巡行できる
・7リットルのガソリンで100km走れる(1リッターあたり14.3km)
・空冷エンジンを搭載する
・ボディは流線形とする
・価格は1000マルク以下(当時65000円程度)

当時、最も安いオペル車でさえ、1450マルクでしたから、この計画はほとんど笑い話のレベルでした。

しかし、このような厳しい条件をクリアするために、ポルシェ博士は2年の研究開発を経て、ヒトラーの要求以上の試作車を完成させます。

●フォルクスワーゲンの歴史

1937年:ドイツの国策企業としてフォルクスワーゲン準備会社設立
1938年:フォルクスワーゲン製造会社として社名変更
Volkswagen1938

ナチス政権時代の国旗にかぶせていますね。

1939年:第二次世界大戦勃発と同時に軍需生産に移行
1945年:戦後すぐに改組・・・タイプ1(旧KdF車)生産再開
1947年:オランダへの輸出販売を皮切りに本格的な世界進出開始
1949年:対米輸出開始
1953年:本格的な日本での輸入販売開始
1961年:タイプ3発売
1970年:VW181発売
1973年:パサート発売
1977年:ダービー発売
1979年:ジェッタ発売
1983年:日本でのフォルクスワーゲンの輸入販売強化を目指し、フォルクスワーゲン株式会社を設立
1984年:日産自動車と提携、サンタナ生産開始
1985年:フォルクスワーゲンAGに社名変更
1988年:コラード発売
1989年:フォルクスワーゲン株式会社からフォルクスワーゲンアウディ日本株式会社に社名変更
1993年:日本国内販売拠点100店舗突破
1994年:日本での単独ブランド累計輸入50万台突破
1996年:フォルクスワーゲンアウディ日本株式会社をフォルクスワーゲングループジャパン株式会社に社名変更、国内販売拠点200店舗突破
2003年:フォルクスワーゲンAGで累計生産台数2,150万台を超える旧ビートルの生産終了
2004年:ゴルフ・ゴルフトゥーランがCOTYインポートカー・オブ・ザ・イヤー受賞
2005年:日本での単独ブランド累計輸入100万台突破
2009年:最新のコーポレートデザイン「モジュラーコンセプト」の導入を開始、スズキとの包括的業務資本提携を発表
2010年:トヨタ自動車とのディストリーリビューター契約が終了
2011年:スズキとの包括的業務資本提携を解消
2012年:ポルシェを完全子会社化、世界統一の新認定中古車ブランド「Das WeltAuto」を導入
2013年:「7代目ゴルフ」が輸入車として、初めて日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞
2014年:日本での単独ブランド累計輸入150万台突破

では、歴代の市販車の道程、車種や特徴を、最初のプロトタイプから順に詳しく見ていきましょう。

●フォルクスワーゲンの市販車の道程

◆最初のプロトタイプ(VW30)

1936年の春に完成した試作車「VW3」。
ヒトラーの条件を満たし、5万kmに及びテスト走行をクリアし、開発は次に進みました。

◆更に進化したプロトタイプ(VW30)

1937年、「VW3」に改良を加えられた試作車「VW30」が30台完成。(後に「VW60」に改変され30台製作されました)

「VW30」は、240km以上にも及ぶ走行テストを課せられ、安全性や耐久性を重視した走行テストの費用は通常の自動車の10倍にも及んだとされています。

 

走行テストの運転者には、ナチスの親衛隊から200名が選出されました。
あえて、意図的に素人を選出し、素人が運転すると起これそうなミスなどの過ちにも耐える車体かを検証しました。

 

1937年から1938年後半にかけて、30台の車のテストが開始されます。

1台の走行距離が8万470kmで、合計すると241万4,100kmが試乗されました。
これは、3,000万マルク(20億円程)が消費されたとも言われ、過去にも現在にも例がないほどの大規模なテストになりました。

◆完成した「ビートル」=(VW38)

お待たせいたしました。1938年に完成したのが、最終生産型プロトタイプ「VW38」でした。
後に、世界中で愛され続け、歴史上もっとも成功した大衆車として知られる「ビートル」の完成、誕生です。

●第二次世界大戦を経て、世界の「ビートル」へ!

◆終戦直後のフォルクスワーゲン工場

ヒトラーの「一家に1台」のスローガンとは裏腹に、第二次世界大戦中は、ほとんど軍用車としての生産のみになってしまったフォルクスワーゲン。

連合軍の占領下におかれながらも、2つの幸運がフォルクスワーゲンの発展を促すかとができました。

 

戦後のフォルクスワーゲンにとっての1つ目の幸運は、連合軍占領下に英陸軍少佐アイヴァン・ハーストの管理下におかれたことです。

ハースト少佐は、フォルクスワーゲンの技術力を見抜き、すぐさま生産体制を整備、1947年にハノーバーで開催された国際貿易フェアの出品を皮切りに、フォルクスワーゲンの自動車の輸出を開始します。

 

 

2つ目に幸運は、ハースト少佐とは逆に英・米メーカー調査団は、フォルクスワーゲンの技術的合理性・進捗性を理解できず、評価に値しない車と判断したことです。

 

これらの結果、フォルクスワーゲンは戦後賠償による、解体や没収を回避し、ドイツ民族系企業として、晴れて真の復興を遂げることとなったのです。

◆フォルクスワーゲン・タイプ1(通称:ビートル)

ビートルは、1945年に「タイプ1」に社名が変更された後、アメリカをはじめとする全世界に輸入され、4WD車の「世界最多量産」である約2,153万台に達しました。

おそらく1車種の4WD車のこの記録は、今後も破られないだろうといわれています。

本当にすごいですね。

タイプ1
Volkswagen Typ 1 1955
Lars-Göran Lindgren Sweden [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

◆フォルクスワーゲン・タイプ2(通称:ワーゲンバス)

1950年には、「フォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)」をベースに開発されたキャブオーバーワンボックス車の名車「フォルクスワーゲン・タイプ2」が新開発されました。

他にも、貨物使用の「フォルクスワーゲン・タイプ2トランスポーター」、多人数乗用車使用の「フォルクスワーゲン・タイプ2クラインバス」、座席の取り外しが可能な乗用・貨物兼用の「フォルクスワーゲン・タイプ2コンビ」、後部がトラックタイプの「フォルクスワーゲン・タイプ2ピックアップ」、現在でも日本の軽自動車をタイプ2仕様に改造したデザインが出回るなど、根強い人気があります。

 

皆さんも街中で1度は見たことあるのではないでしょうか!?
Lavenham, VW Cars And Camper Vans (28235530906)
Martin Pettitt from Bury St Edmunds, UK [CC BY 2.0], via Wikimedia Commons

●1968年当時のVWオールラインナップ

タイプ1(ビートル)」と「タイプ2」は、フォルクスワーゲン社の主力モデルとして販売台数を伸ばしてきました。

その後も、「タイプ3」、「タイプ4」なども販売され、1968年には派生モデルを含め8車種が生産されました。

タイプ3
VW 1500 Stufenheck

タイプ4
Volkswagen 411L dutch licence registration AM-74-68 pic5

丸い「ビートル」から四角い「ゴルフ」へ世代交代

◆フォルクスワーゲン・ゴルフ初代I 17型

一世を風靡したビートルも空冷エンジン自体の技術が古くなっていたのと同時に、1960年代後半には低迷期を迎えました。

そこで社運をかけた後継車として1974年に開発されたのが、水冷直列四気筒エンジンを横置きにしたFF車のハッチバック車「ゴルフ」です。

 

イタリア人工業デザイナー、ジョルジェット・ジウジアーノが手がけたデザインは、コンパクトながらも余裕のある室内空間を両立し、世界的ヒットとなり、約680万台が生産されます。

 

車名は、ドイツ語で「メキシコ湾流」を意味する「デア・ゴルフシュトローム」から名付けられました。

 

ゴルフ」は、「タイプ1(ビートル)」の後継車として、高い期待が寄せられましたが、その信頼性の高い駆動方式、優れたスペース効率、特徴的なデザインにより、「ビートル」から始まったサクセスストーリーをうまく継続することに成功しました。

 

結果として、累計生産台数において、ビートルの世界記録、2153万台を抜き、2019年時点で、累計生産台数は3500万台を超えています。

初代ゴルフ
VW Golf I Bj.1974
The original uploader was Spurzem at German Wikipedia. [CC BY-SA 2.0 de], via Wikimedia Commons

◆フォルクスワーゲン・ゴルフ40thエディション

現代も出るまで8代のモデルチェンジを経て、1975年の日本への輸入開始から40年、2016年には40周年記念モデルが276万円で販売されました。

フォルクスワーゲン「ゴルフ」は、現在まで累計生産台数3,000万代を超え、7代目である「ゴルフ」は、2013年に6月に発売開始、2013~2014年に外国車として初めて「日本カー・オブ・ザ・イヤー」を受賞しました。

現行型ゴルフ
Volkswagen GOLF eTSI Style (3AA-CDDFY)
Tokumeigakarinoaoshima, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

●日本におけるフォルクスワーゲン

フォルクスワーゲンの日本における事業展開は、ヤナセが最初に販売契約を結び、1953年(昭和28年)から輸入を開始したことが始まりです。

ビートル「タイプ1」の販売価格は74万円で、当時は国家公務員の大卒初任給は7,650円という時代、日本橋で行われた展示会には6,000人が来場し、380台の注文が記録されています。

 

1980年代には、直接の子会社であるフォルクスワーゲン株式会社を設立し、フォルクスワーゲン自ら正規輸入に携わり、現在に至っています。

◆Volkswagen輸入第1号車「ビートルスタンダード」

2015年5月25日に創立100周年を迎えたヤナセでは、創立100周年記念として、Volkswagen輸入車第1号車の「ビートルスタンダード」を、東京支店に展示されました。

あえて、当時のコンディションにこだわり、新品交換はタイヤのみ、ボディは塗装しなおしたものの、それ以外は、クリーニングや磨き処理にとどめたビートル。
ビートルファンには一見の価値あり!!

※今現在は展示場所が期間限定で変わってきています。

●80年の歴史に幕?フォルクスワーゲンの「ビートル」が販売終了に?

 

2018年からフォルクスワーゲン車の輸入元が展開している「See You!The Beetle」キャンペーン。

新しいところでは、その第4弾として「マイスター」という名の特別仕様車が販売されていますが、「See You!」というとおり、これは、「フォルクスワーゲン・ザ・ビートル」の販売終了キャンペーンです。

 

オフィシャルウェブサイトにも、「皆様に愛していただいたザ・ビートルは、2019年をもって日本での販売終了になります」と明記されています。

 

輸入元であるフォルクスワーゲングループジャパンに販売終了の理由はというと、広報部I氏から「ザ・ビートルは2011年(日本では2012年)にデビューしました、ですから、モデルサイクルの終了ということになります」という明快な回答でした。

 

へ~そうなんだ」と納得してはいけない。
なぜなら、後継となる新型が存在しないからです。

2012 Volkswagen Beetle (1L MY13) coupe (2012-10-26) 01

2012 Volkswagen Beetle (1L MY13) coupe (2012-10-26) 02

2012 Volkswagen Beetle (1L MY13) coupe (2012-10-26) 03

まとめ

いかがでしたか。

ここまで、フォルクスワーゲンの歴史について、ご消化させていただきました。

基本的なスタイリングは不変だったものの、ビートルは絶えず進化を続けました。

1Lからスタートした水平対向エンジンは、1.1L、1.2Lと発展を遂げ、最終的には、1.6Lまで拡大されました。

 

 

ビートルがこれだけの人気を獲得した背景には、「カウンターカルチャーのシンボルだった」という理由もあると思います。

年ごとにゴージャス化、大型化するアメリカ車に異議を唱える知識階級が愛用しましたし、1960年代にはヒッピーカルチャーと融合して若者から絶大な支持を集めました。

 

また、比較的シンプルな構造からカスタマイズのベース車両としても人気を得て、ホットロッドやチョップトップなど、さまざまな改造車が生れたのです。

2003年、最後の生産拠点となるメキシコ工場で、車台ビートルは最後の1台を送り出しました。

 

総生産台数は、約2153万台、自動車史に輝く不滅の数字です。
ビートルの生産が終了しても、この車が残した偉大な足跡は少しも色あせることはありません。

今度、街角で古いビートルを見かけたら、「お疲れさまでした」と、どうぞ声をかけてあげてください。

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